2012年7月4日水曜日

博物館巡り①(戦争証跡博物館)


渡航から間もなく1ヶ月半が経過しようとしているが、悲しいことにいっこうに初対面のベトナム人が何を言ってるか全然わからない日々が続いている。。。当初に比べれば、当然ながら買い物などで使われる単語レベルやある程度話の内容が想定できるようなケースでは困ることは減ってきているものの、文章で何か早口にしゃべられるとまったく理解できない。そして何より、ベトナム人多少英語ができる人が多いので、こちらがベトナム語で話しかけ、ベトナム語で返された際にこちらが理解できていないことがわかるとすぐに英語で話されてしまう。「会話」と呼べるレベルでコミュニケーションがとれるようになるまではもう少し時間がかかりそうだ。。

さて、当ブログの読者の方々から、記事が「長過ぎる」という指摘を幾つか頂いているが、今回もそれなりの分量になってしまうだろうことを最初に断っておきます(笑)

今回は、ずいぶん前のホーチミン半日観光で行かなかった博物館系を巡ってみた。

最初は、ホーチミンで代表的な博物館であり、ずーっとずーっと気になってた「戦争証跡博物館」へ。


ここはベトナム戦争当時から現代に至るまでの戦争関連の証跡物が展示されている。博物館と言いながら、展示物のほとんどは写真ばかりで、博物館の周りに戦車や戦闘機、大砲など、中に多少の武器や爆弾、衣類などが心ばかり置かれている程度だった。




建物は立派に見えたが、中はけっこう簡素なつくり。


ベトナムに来るまでベトナム戦争に関する知識が全くと言っていいほど無かったので、今回ここを訪れるにあたり歴史的な背景や流れはある程度抑えておいたのだが、やはり実際の写真を目の当たりにするとありありと当時の様子を見ることができ、まさに強烈な印象を受けた。

ちょっと話が逸れるが、僕と同年代の人は特にベトナム戦争のことを全然知らない人が多いと思うので、戦争に至るまでの過程を簡単に書いておく。因みに今回初めてベトナム戦争のことを勉強したのだが、とりあえずベトナム戦争っていうのは本当にわかりづらい!むちゃくちゃ長い上に、どこから始まりだか不明瞭、色々な国や関係者が複雑に絡み合っており、頼みのWikipediaも読むだけで20分くらいかかる・・・汗

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ベトナムは1884年からフランスに植民地として支配されていたが、1940年フランスがドイツへ降伏すると名目上日本が1945年の第二次世界大戦の終結までベトナムを占領。日本の敗戦とともにベトナムは独立(「ベトナム民主共和国」)。この独立に尽力したのが、有名なホーチミン氏。
しかし結果戦勝国となったフランスが再度支配を試み進駐し、1950年ベトナム南部にフランスの傀儡政権である「ベトナム国」を樹立、ここでベトナムが南北に分断され、ソ連中国(社会主義)が応援する北部と、フランスアメリカ(民主主義)が事実上牛耳る南部とでインドシナ戦争が始まる。
その後各地で戦火が繰り広げられたが、1954年に停戦協定(ジュネーブ条約)が結ばれる。ここまでは事実上フランスが南ベトナムを支配していたが、戦争の後半からはアメリカが軍事介入を強化し始めており、ジュネーブ条約以降はアメリカが南部ベトナムを掌握することになる。
1960年頃から激戦が始まり(このあたりからをベトナム戦争と呼ぶ)、1973年のアメリカ撤退まで続く。その後1975年まではベトナム人どおしの戦いとなるが、南ベトナムが北ベトナムに降伏する形でベトナム戦争が終結、1976年に今日のベトナム社会主義共和国が樹立される。
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さて、話を戻して博物館。

<ここからはちょっと気分を害する可能性のある写真や表現が入ります>

博物館の中身は、主に戦争時の写真とベトナムが受けた被害の写真が中心。おそらく1000枚程の写真が3階建ての建物に展示されていた。

何より衝撃的だったのが、ベトナム戦争の特徴的な「枯葉剤」によるベトナム人が被った被害のリアルな写真。
枯れ葉剤を直接受けた本人はもちろん、その子孫まで、手足がない、目がない、体が歪んでいたり、中には双子の体がくっついていたり体の左半身が右半身の倍以上の大きさに腫れ上がっている・・・その他にも言葉にしづらい、目を覆ってしまいたくなるような写真の数々。
また一部散布した側のアメリカ人の体にも影響が出ており、その写真も掲載されていた。

これまでも多少目にしたことはあったが、直接その写真をしかも大量に目の当たりにし、まさに言葉を失う、という気分だった。大量の民間人が受けた戦争と化学兵器の恐ろしさを改めて思い知らされた。

いつもこういうとき、自分はカメラを持ってたくさん写真を撮ってくるのだが、今回はちょっと素直に写真を撮ることがはばかれる、そんな写真ばかりだった。他の観光客も、外の戦車の前ではポーズを撮りながら記念写真を撮っていたが、建物内ではほとんどカメラを構えている人は居なかった。それだけ衝撃的な写真だったのだと思う。

あまりにも衝撃的な写真は割愛するが、幾つか印象的だった写真をここに載せておく。

枯葉剤の被害を受けた地域のデータ。
注目は、ホーチミンの26%のエリアが枯葉剤の散布対象であったとのこと。それだけ民間人への被害が甚大であったことが伺える。


枯葉剤がまかれる前後の様子。
生い茂っていたマングローブが完全に死滅している。



死滅したマングローブに立つ少年。
次の写真の白い服の男性は、上の写真の少年の20年後の様子。枯葉剤の症状が出ているのがわかる。隣に写っているのはその子供。


日本人により撮影され、ピューリッツァー賞という賞を受賞した有名な写真。
その1年後、撮影された人にその写真が贈呈された様子。写真は笑顔で写っているが、どういう気分なんだろう。


親が枯葉剤の被害を受け、生まれながら片手と両足が無い女性がオバマ大統領にあてた手紙。
オバマ大統領が彼の娘に送った有名な手紙(娘たちの将来の為に素晴らしい国にする、みたいな内容)を引用し、「自分は医者になりたくて一生懸命勉強しているが、そのサポートをしてほしい。世界最大国でありベトナムにこれだけの被害をもたらしたアメリカの大統領であるあなたは、自国のことだけでなく他国の恵まれない子供にも目を向けてほしい。」
(ちょっと僕の説明が微妙ですが、内容は決して感情的であったり皮肉を言っているようなものではなく、とても紳士的に純粋にベトナムの現状を訴えているものでした)
たった5年前の話である。


ホーチミンに住んでいると、もちろん東京とは比べるべくもないが、何でも大変便利で街は戦争のことなど忘れてしまうくらい発展しており、まさにこれから!という活気のある印象を受ける。ただそれは実はホーチミンの単なる表舞台なだけに過ぎず、目に見えないところでこのような被害を受けている人は現在もたくさんおり、未だに戦争の被害に苦しんでいる一面があるということを認識した。
戦争の後遺症を受けていると思われる人が道ばたで物乞いしている姿を見かけるのだが、以前に比べるとその数は減ってきているらしい。ベトナムは中産階級が増えてきており生活が少しずつ豊かになってきているとのことだが、果たして彼らに適切なサポートは届いているのだろうか。

月並みだが、改めて戦争の恐ろしさを知るとともに、決して忘れてはならない、そして語り継いで行かなければならないと強く思わされた。
当時のアメリカ国防長官の言葉
「我々は後の世代に対してなぜこの過ちを犯してしまったのかを説明する負債を追い続けなければならないだろう」


ベトナム戦争は、その後の湾岸戦争等と異なり報道規制のようなものがほとんど無かったようなので、当時もほぼリアルタイムで戦争の様子が世間にさらされ、この博物館のように多数の写真や映像が残っているらしい。そういう意味ではこの博物館は、ベトナム戦争のことが知識として身には付くようなものではなかったが、べトナム戦争とはどういうものだったか、ということを視覚的に訴え、戦争について考えさせられる十分なきっかけをくれる非常に有意義な博物館だと言えるだろう。
ホーチミンを訪れた際には是非とも足を運んでほしい場所のうちの一つ。


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